そして、ふれあいの旅はうまれた
前述した初代宮田三男時代のビュウロウには、木曜日以外にも溜り場が出現した。日中は調理室を中心に婦人団体が集結し、特に月曜の夜はわたぼうし組らが閉館時間と締め出されるまで長居をきめこむ。音訳朗読グループには録音室、こども室なども。母子会のカフェカウンターもモダン。老若男女入り乱れる原町の宮崎県福祉総合センターは玄関にはフェニックスロータリーを構え、クルマ社会黎明期でパーキングにも余裕があって敷地西の児童相談所から敷地内にバレーボールが垣根を飛び出した。
そしてテーマを解決するミッションに立ち上がる障害児を普通校へ、心臓病の子どもを守る会団体など全国的展開が流れ来て、地産の当事者親の会発足の登竜門化が出来上がる。Vの文字に共感する若者たちも各福祉専門家たちに触れたいと研修会に学び、インスタント活動家ぶりも板に付くのであった。人数で圧したのは手話ブーム、隣県鹿児島開催に駆けつけ持ち帰ったコンサートと派手さもまとったムーブメントは、管理の宮崎県社会福祉協議会のフィルターをほどよく抜けてみどりの児童交通公園にはりめぐらす大木草花に習いおろした根をはりめぐらす。
池袋ゆきわりそうひまわり号記事ニュースに感化され言い出しっぺが危ないリーダーシップを切り思い込み力と事務局判断の塀の上にレールが敷かた。実際のPCコピペは20年後だが、バリアフリー前の状況打破的車椅子電車旅を観光列車旅行に見事に書き換えたやかんたぎり力。当初のメッカであった北郷町みづよ高原へと長いトンネルの日南線を貸し切りもちろん青島内海も眺め、通称らくだ號は愉しい満員列車で飫肥駅を往復した。