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財部さん逝く

2024年12月8日 財部さん逝く はコメントを受け付けていません

宮崎市清水町で少年期を、岐阜県大垣市での職場体験後帰郷。馬場昭道さんとの交遊からレアな市民活動への繋がりは宮崎わたぼうし会黎明に意気投合。山田良一会長誕生後も大規模な福祉エンターテイメントへ育てる番頭役とし、当時斎藤泉ドライバー取得を期に高まった障碍者運転免許獲得の波に乗り愛車を走らせパンフレット広告集約に大活躍。私的エピソードの中で一番は、愛車の初運転の助手席。開通した頃の新高松橋を大工町へ。座席に構えの姿勢は身体の都合で視線を中心に保つため自然と私よりにカーブする。上手いのだが私も運転感覚が乗り移り心臓が口から飛び出す想いというのを初体験。彼の愛車での遊び仕事っ!は相当な社会貢献を産んだ。くわえて鴨はみていた 真早流直義ひこばえ村長の配下で大西章弘とのコンビは、あらゆる出来事のスタートにしぶとくからまりあう。

誕生日が開戦日前日の12月7日というユニークなキャラクター

知る人ぞ知る怪人タカラベトヨタカチャン。初めて柏田バス停下の部屋の階段を上った時は、互いに若く波長が合った。散乱する紙類から拾い上げた日記の拾い読み・俺はフジ子が好きだの書き殴りで壁ははずれ、踊り場がわたぼうしの舞台道具置き場だった。

有名人キラー

同級生に市民活動派がで、在野のさらにはみ出したボランティア仲間たちにクールな物言い癖の連打はうんざり。紙面それも有名記者をうどん店探査案内役のせいか、毎日読者。かっての宮崎文化のメジャーシーンと障がい者・縁の下生活ささえを二又かけて毎日が奔走。

どんこや渡米

流石の皮肉屋もわたぼうし発アートステーション構想の他流試合・同行取材付き要員抜擢には奮い立ち、ニューヨーク地下鉄の換気口?からの吹上げ例のマリリンモンロー下ネタとグランドキャニオンセスナ飛行実況を壊れかけのラジオのようにリピート。

晩年

横穴式石室の近い老人ホームに会費集金に寄るようにと。明るい性格でたのしくされていると管理者受けも良好。同時代の仲間かほとんど八十路に入り噂さえ、発信者自身が塀の中では。身の丈に替えたザ宮日から細かなネタの提供が忘れた頃に。合掌

付記

アジアわたぼうしツアーの常連。整肢学園での療養仲間俊英の筆頭たちの記録者。ラジオTVを2台同時に聴く異能。うどん取材での案内役は毎日新聞伝説記者の佐藤健氏。アマゾンとの関係者ナカタケ氏。青い鳥作業所(池田節子ファミリー) での弁当配達では劇場照明家への日参。宮崎日日新聞おおつか販売店集金では、甲斐聖二電動車椅子後釜で青空市場随園中華店。下原墓地の財部家墓参を欠かさぬ信徒。福岡出身ご母堂は宮崎県職員として初のキャリア。

回想

川原一之氏初訪問時にも同行、私のルーティン轢死ネコ埋葬に加わってくれ・ミニスコップを車載。誕生日も一日違い。運転手の私からの無理強いにもユーモラスに応じて轢死の激しいのを腸まで掴んで拾い上げた勇姿は、抱き抱えた少年と共に二大表御弔い。再度合掌

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