掲示板
野望どまりだが、市制に一個はアイデアがある。それは、「活動」的な人なら誰もが経験しているだろうポスター貼りのことである。写真を撮ったようにようやく進化を遂げ雨にも強いファイルが準備されている。感謝ではあろうが、まだまだ広報を合法的に援助する掲示板へと進化をさせたい!と公約するのだ。
地方代議士選挙と内閣改造とかは、相撲の力士名とともに自然とTVを通じ身についた昭和はざま世代も還暦越え。団塊が後期高齢者、ゆとりが大人期と世代も多様性に富む。定年前に柱を打ち立てときゃあ良かったものを!個の時代を促進した功労くらいかな社会との相関図。
私は投票する時、判官贔屓的に弱者優先な入れ方をしたような気がする。傑作なのは、知事選の時、あまりの盛り上がりに当時(今もだが)茶髪でヤンママしてた長女が候補者の名を口にしたのを真に受けたが、本人は行かんかったつよなのだった。
さて、市民活動の時代に小さな活動にも動員をかけるのは、民主主義の役割だろう。ギャラリーが集まれば集中力や投げ銭的に思わぬ結果だってできかねない。市民力は総力戦というやり方は時代性を帯び伝統としての祭りを成す。一方たった一人からの気づきの伝搬には前例なしという言い訳が通用し続け、人間関係の新機軸までもトップダウンしかないような気がしてならない。知らされない、ことの中に磁場が潜むことは、知らなくて良いとの排除が意図されていると意地悪に意地悪で返したくもなる。映画((1984))のとおりに、街中にディスプレーが目立ち出し、掲示板には何時の間にか小さな活動さえ探せなくなっている。自発性を励ますような掲示板の役割を左右する予算化に決定打は、場外から飛んでくる可能性を見よう!である。