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オリムピックセンター噺

2019年11月20日 オリムピックセンター噺 はコメントを受け付けていません
末次一郎氏が手掛けた青年活動体の一つに、日本青年奉仕協会があった。通称ジバ・japan youth volunteers assoiationを略し。

気の利いたgiftの数々を贈呈してくれたボランティア仲間斎藤計行さん。半纏などはすでに着古し、正月飾りで凧のキットをもらい記録としてできたのがYAH!DO凧。埃にまみれ居間に掛かったまま朽ちる寸前。あっ松兼、齋藤ノブオ、酒井ヤスシトリオの右に出る小松コウイチ(aka.現代の宮沢賢治と呼ばれた)だあ・・・と下から見上げる。宮崎のわけもんを代表して中野コウキと当時の日本ユースを代表する辻タカトキもそろう。(北海道常呂のホタテ大王と勝手に呼び親しんだ彼は、とっだまり先生との親交を深めるに至った)

奴凧(やっこだこ)をもじった「やっど」は実ははにわ広告事務所の平成直前の年始のデザインで使用された方言のやっぢの借用で萩原宏典社長には足を向けて寝られない。当時の淀川河畔の住宅兼事務所からはYAH!DOトレーナーも誕生した。それを着た実行委員たちが躍動した平成元年2月。全国ボランティア研究集会青島集会800人の老若男女障がいのある人ない人がYAHYAHYAHと集まった。

何故か、ふと鈴木ミツタカさんとの切れかかったご縁を想いたどる内に、足利の縁側カフェにご活躍をWEBに知らされ、白日夢は沃野を駆け巡る。しばし時をかける男となり、大丈夫MY FRIENDな気持ちの高ぶりを得る。

その後山形大会を締めに終わった一大プロジェクトは代々木のオリンピックセンターと元気な地方各県を行き来して一つの集会のかたち、一年間ボランティアプログラムとの連携で教育分野と社会の多様性と暖をとれる磁場を形成し、今は跡形もなく去った。

出版部の興梠寛さんの人国記の仕事で、早く陽の当てられた宮崎県だった。ジバに行くとは、全ボラに行くとは、事務所が入居していた選手村のリユースの代々木のことであった。大改造される前の選手村のまま、幅広の二段ベッド、コンクリートのシャワー室、酔いつぶれた坂の中庭など考えも及ばなかったが、いだてんで田畑氏が苦難の末成し遂げた代物だったのだあ。

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