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野海靖治エトセトラ日記11

2020年10月7日 野海靖治エトセトラ日記11 はコメントを受け付けていません
野海実行委員長再来!思っていたことを書いて送ってくれた。日記とは別な味で。長年ボランティア活動に加わってきた前後のエピソード。固有名詞が懐かしい。伏字はWEBマナーとして処理。

2012年に前の「ふれあいの旅」の「実行委員長」だった和田君から、「『ふれあいの旅』の『実行委員長』を引き受けて!」と言われて、その年から「ふれあいの旅」の「実行委員長」を引き受けた!

僕が初めて「ふれあいの旅」というイベントのことを知ったのは、30年くらい前に参加した宮崎県主催の「ふれあいの翼」という「障がいがある人」とその家族を北海道に連れて行く旅行のときだった!その「ふれあいの翼」の田野にある専門学校の学生さんがボランティアとして参加されていたから、その学生さんの出迎えで、その当時、田野の専門学校で教えておられた押川先生が来ていた。その押川先生には「訓練キャンプ」のときに大変お世話になっていた先生だった!「ふれあいの翼」の最終日に母が押川先生に「何か(僕と)参加できるイベントがあるのですか?」というようなことを聞いて、「それなら、『ふれあいの旅』があるよ!」ということを教えてもらって、しばらくして、押川先生から「宮崎県ボランティア協会」主催の「ふれあいの旅」の申し込み用紙を送ってもらった。

でも、その「ふれあいの旅」の日は弟の運動会みたいだったので、「(母が)いないとダメだろう!」と思い込んでしまって、結局、「ふれあいの旅」には行けなかった。

その頃、永山昌彦さんがアメリカに行かれたことが新聞に連載されていて、僕はそのことを羨ましく思っていた!そんなとき、宮崎で「ふれあい広場」があって、そのときも押川先生に会って、どういうわけか、母が「(僕が)昌彦さんに憧れているのですよ!」ということを押川先生に言ったら、押川先生が昌彦さんを紹介してくれる事になった!そのときにも、昌彦さんから「ふれあいの旅」のことを言われたけど、母の都合で行けなかったことを伝えると、「(僕)一人で行っても良かったのに!」と言われた!

そのあとの何年かは「ふれあいの旅」に行けるチャンスがなかったけど、この間に、都城の社会福祉協議会が主催しての「ふれあいの旅」が何回かあって、その「ふれあいの旅」に3回、参加した!都城の方の「ふれあいの旅」は、「福祉バザー」の売り上げでやっていて、もちろん、「宮崎県ボランティア協会」主催の「ふれあいの旅」とはまったく、関係ないのだ!なので、同じ「宮崎県」の中で「ふれあいの旅」というイベントがあったことは、今、考えてみても疑問に思っている。最後に都城の「ふれあいの旅」に、そのあとすぐに、「点字図書館」に行かれる又木さんに「朝風呂」まで付き合ってもらって、とても楽しかったけど、いわゆる、「頑張っている障がい者」や「感動〇〇〇」という臭いがプンプンしていたから、その次の年の「ふれあいの旅」には行かなかった。「福祉バザー」がなくなったこともあって、都城の「ふれあいの旅」もその年でなくなってしまった。

それから2、3年経って、やっと、「宮崎県ボランティア協会」の「ふれあいの旅」に参加することができたけど、「ふれあいの翼」に参加したときと違って、一人でいろいろなところに行けるようになったことで、「旅」に対する目がこえてしまったことと、「ボランティアさん」たちがかなり、「上から目線」の人が多いように思ったから、「『ふれあいの旅』には二度と行くものか!」と思っていたけど!

その次の年に、初めて「宮崎県ボランティア協会」の総会に参加したときに、「『ふれあいの旅』なんて、意味がない!」と言ってしまって、その当時の「ふれあいの旅」の「実行委員長」だった中村さんから、「それなら、『ふれあいの旅』の『実行委員長』をしてみろ!」と言われて、喧嘩になってしまった!

2001年から「宮崎県ボランティア協会」の理事になってしまい、「『ふれあいの旅』を面白いものにしたい!」と思って、「ふれあいの旅」の担当を希望してやってみたけど、「宮崎県ボランティア協会」の理事になって、はじめの方の理事会で、ある人が「『ふれあいの旅』のときは『無理矢理』でも親と離すべきだ!」という主張を聞いたり、今まで「ふれあいの旅」に参加している人や、実行委員をやっていた人から、「そのままの『ふれあいの旅』がいい!」と言われたこともあって、「『ふれあいの旅』を変えてくれるな!」というプレッシャーもあって、なかなか、思い切ったことができなかった。

僕は「『ふれあいの旅』のときは『無理矢理』でも親と離すべきだ!」という言葉を聞いて、特に宮崎の人はそうだけど、「『障がいがある人』は『(障がい者)施設』にいる!」というイメージが強いから、「別に『ふれあいの旅』のときに親子で参加している人を『無理矢理』に離す必要があるのかな?」という自分のこととはまったく違うことを思っているし、重度の人になるとなかなか、家族と一緒に旅行することができないから、「ふれあいの旅」を「家族旅行」として利用してもらいたいという思いもある!
「『ふれあいの旅』を変える!」という個人的な目標はなかなか、できないまま、まさかの、「ふれあいの旅」の「実行委員長」を引き受けて、ほかにもやることがあるから、「実行委員長」としての活動をほとんど、できなかった!それでも、長崎や福岡など、「ふれあいの旅」にとってははじめて行く場所に行けて、「実行委員長」としては良かったと思っている!

それでも、「『ふれあいの旅』を変える!」という思いは捨て切れなかった!そういうのも、「ふれあいの旅」の目的としている一つに、「『ヘルパー』の『資格』を持っていない人でも、気軽に『ボランティア』として参加してください!」とチラシに書いてあるけど、「トイレ介助」をお願いする時に、「うちの会社は『ヘルパー』の『資格』を持っている者がいないので、二度と『トイレ介助』のお願いに来ないでください!」と言われたことが何度もあった。

それと、「ふれあいの旅」の実行委員会の打ち上げのときに「ヘルパー」さんを連れてきていた実行委員がいた!「『ヘルパー』さんと一緒に行く時は『ヘルパー』さんの分も払う」というルールがあるから、一応、幹事の山崎さんに聞いたら、「私も公立大の学生さんもいるから、『大丈夫よ!』と言ってみたけど・・・」と言っていた。僕もほかの「障がいがある人」から「『ヘルパー』さんと一緒にいなさい!」と言われたこともあるから、「どんなときも『ヘルパー』さんと一緒にいないといけない!」というプレッシャーがあって、「ヘルパー」さんを連れてきたとは思う!

僕の場合は「遠慮する」気持ちが強いから、家族とか「ヘルパー」さんがいつも一緒だと何もできないのだ!「ヘルパー」という存在は「必要」だと思うけど、ある程度は「ヘルパー」さんがいなくても大丈夫な社会にするために「ふれあいの旅」が「必要」なのだ!

それで、古賀さんの「ダイナマイトマーケティング大学」で、「USP」のときのように、この場にいた人たちで「ふれあいの旅」の事を考えてもらった!でも、「ダイナマイトマーケティング大学」の時に考えてもらったことを、また、「遠慮する」気持ちが出てしまって、肝心の「ふれあいの旅」の実行委員会の時には提案できなかった!

そして、2017年の「ふれあいの旅」の行き先は熊本だった!「路面電車に乗る」ということがその年の「ふれあいの旅」の「目玉」企画として、阿蘇に行くという旅だった!

そのときの「ふれあいの旅」で僕のお世話をしてくれる「ボランティア」さんは、綾で「障がい者施設」をしている人で、今までの「ふれあいの旅」の中で一番、「ユニーク」な人だった!でも、その人は、「障がいがある人」に対する介助の仕方にこだわりというか、かなり、「思い込み」が強かったみたいで、「ふれあいの旅」の「事前説明会」のときに、僕は「食事介助」をしてもらうときには(僕の)左側から介助してもらう方がいいみたいなので、思い切って、たぶん、公立大の学生さんだと思うけど、「食事のときは左側に座って介助してください!」と教えても、「ふれあいの旅」でお世話になる人が「食事介助をするときは右からって決まっている!」と言われて、その学生さんを右側に座る位置を変えられてしまった!「なんとか、教えたのに!」と「悔しい!」というよりも「あ然」だった!それと、「お風呂の時はTシャツを着ないと・・・」というアドバイスを公立大の学生さんたちにしていた!僕はこの言葉を聞いて、「ゆきわりそう」は、お風呂の時、介助してくれる人も裸でしてくれて、初めて「ゆきわりそう」に行ったときにはかなり、驚いてしまった!人によっては、障がいの関係で介助の仕方が決まっている場合があると思うけど、僕の場合は、介助してくれる相手との「信頼関係」もあって、介助してもらうから介助の仕方に「絶対、こうだ!」ということはないと思う。

そんな「ふれあいの旅」の本番は、とても楽しかったけど、阿蘇の義手の方がやっている「美術館」は、「頑張っている障がい者」や「感動〇〇〇」という臭いがかなりあって、「こういう考え方の人もいるんだ!」と「あ然」とした!今でも「『ふれあいの旅』を変える!」という思いがあるけど、いったい、いつになるかな・・・。

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