障害があってもやっちみろ会・再見!(さらば!)
「家を開く」生き方が困難さを可能にする。誰とでも話しができる。どんな相手とでも辛抱強く傾聴できる。そんなメンタリティーは家族の生き方が作り上げた。そして受け継がれていく。
10月14日午後一時「みなさんの記憶にどうぞ残してあげて下さい」父との別れ、親族からの礼を喪主・永山昌彦はこう力強く、労いを込めしっかりとした口調で伝えた。太刀洗という太平洋戦争歴戦の地での青春を息子に語り伝え、それに耐え生き抜いた誇りを胸に秘め全力で家庭を守り続けた86年の故人の生涯は常にオープンであった。戦後70年の話題が安保法制に関して喧しい夏の終焉とも重なった2015年秋。人のライフスタイルとして輝くものがあったことをボランティアシーンエピソードとしてここに記憶しておきたい。
永山昌明は小児麻痺の長男と介護に専念する妻を商店の家庭に置き、青果行商のミゼットで新興青葉町内を駆け回り、今でこそ買い物難民という皮肉で称されるが物の不足する時代の主婦たちに直売をして回った。長屋に身を寄せ合う新興生活圏が国鉄線路を隔てるというだけで、決定的に部落の様相をする着の身着のままの生活が各地区で始まった戦後7、8年のことである。農村はすでに農地改革のメスが入り近郊農地、荒廃地が住宅地として新天地へと変化して若い世代を受け入れていく。復興の号令もなしに自発的生活圏の開拓が成され、一人一人が奮闘し助け合い励まし合い、とって付けたように「高度経済成長」の看板が遠い政府では上げられた。九州の南端では様々な地域が起こり台風銀座と災害も陽気に受け流し、皆んなで小規模からのスタートを切った訳だ。そこは究極のスモールイズビューティフルな生活。ほぼ江戸の頃にタイムスリップし、生活そのものが簡素でボランタリー。人は正義を信じ、モラルを守り、親切心で支え合った。
そんな日常の中での未熟児の訓練、就学と人目につく頃から、商店の軒先に乳母車に乗った幼児は誰彼となく介護を受け、成人後はタバコ店の店番としていらっしゃい!と商売上手に成長した。
同じように障害を持ちながらも成長し大島の職業訓練センターに前後して県内から集結した若者たちには硬い友情も生まれていた。社交性は否が応でも身につき、一言話しが出来さえすれば、外見からのバリアーは外れその全身渾身の生きるエネルギーには魅了されさえするのであった。
ただ、世間的には全国民が戦争のトラウマにかかって人のことどころでは無いわいというネガティブさも差別意識を助長して地域で個性たちが輝くチャンスはめったにはなかった。
そんなこんなでそれぞれが成人し、その夢をまだ持て余していた頃、ボランティアシーンが受け皿となり、「障害があってもやっちみろ会」がグループ活動の仲間からスピンオフして躍り出た。
いきなり、ニシタチのホールが後のバブル期にパラパラダンスのワンレンボディコンが出現するのを予告したような一夜の狂乱が!!!その男子たちによって誕生し、そのまま障害があっても大人になるのだという通過儀礼をやってのけた。
その中心人物、青空市場吉木青果店の息子、この話しの主人公の息子、油津から出てきた池上商店の息子、それに広瀬大炊田の清六ことわたぼうし会ボランティアリーダーが化学反応を起こしたのだった。
筆者も親族としてのスタンスをとっていたが、ニシタチで彼ら女装軍団と遭遇してからは、その輪に躊躇なく入った。
その一部始終を見守っているうちに年老いた永山昌明は、目の前の変化に驚かされ続けたものの、家を開かざるを得なかった生き方の主人公であったことをどう述懐するのであったか。今は、これからは我々がその回想を続けるしか無い。家を開く生き方が普遍的に役立つことを生きているものが証明するしかない。そんな現実の前でひるんではいられない。彼の煩悶も喜びも全てを継承していきたい。永山商店チルドレンのひとりとしてそう誓う。