合理的配慮まつり編
温故知故※、ふれあいの旅はゆきわりそうが先駆けた障がい者旅行の宮崎版でわたぼうしコンサート活動からのスピンオフであった。肝心の施設ゆきわりそうについては、野海靖治の東京池袋でのベースとしての情報に詳しいはずだが、特異な発想の彼はかーねーぎーホールで第9合唱をうたう障がい者団に紛れてわたぼうし範囲内を越境している。何しろ宮崎の障がい者がたどる本郷南方整肢学園入寮での義務教育もスルーしている。彼の少年期はコテコテノ尼崎での訓練重視教育だった。宮崎でも訓練重視はふれあいの旅のミューズ山崎光代の少女時代をMRTドキュメンタリーとして記録されている。※温故知故とは伝説の横浜アリーナでの船井総研イベント郷田實講演で語られる印象的フレーズ。
少年の夢は尼崎で膨らみ続け、帰郷後延岡養護での文才の開花となり、Amazon作家の今に続く。ミレニアム期に自立へ向かうが当時の宮崎市も中核都市移行で様々なNEWが出現し、我々を大いに喜ばせたのは初代実行委員長マッチが、結婚と就職を得て若衆宿ほうれん荘はどんこやからYAH!DOへの道が開け友井絹子も延岡から江平市営住宅へ家出していたのが、移り住み、スタッフにも鹿児島谷山から田野医療管理専門学校に学んだ立根篤則が友井居室をBar絹子とごちていた頃。この辺は川原一之氏の記録作家としての腕で宮日新聞連載されたアートは君のハンディの中にに在るが、ピアルームが宮崎市社協のサテライトとして若草通に出現していたことが、野海靖治にとって幸運であった。そして普通の生活志向のいろんな障がい者、老若男女にとっても。商店街がシャッターを下ろしてもたっぷり昌彦さんともう一人のコーディネーター辰巳信子さんらスタッフの勤務時間であり、トイレはあるわで今のHAROWを四半世紀先取りしていた。後には協会メンバーの県職員川添氏の定年後の夢ギャラリー色空も出現していたし。サテライトはアクセス絶好の若草通を離れオルブライトホール3Fに活動センターとして宮崎市のお膝元に返された。一連の拠点構築には祇園町時代の社協からの坂本智子、西村寿一郎なんかが対等にやりとりしてくれた。特記すべきは思い出多い旧市民会館で日南大学が上々颱風クリスマスコンサートを出来てしまった事。当時県福祉総合センターに出向していた西村寿一郎がグッジョブした。コロナ期実現した芸文祭などの原型になるげんきげんき芸術祭などの冠は現代っ子センター藤野忠利さんのアイデア。
ところで、こんな背景を超えた野海靖治の今回限りの動きは、あみーロードからぐるっぴーするのだろうか?せっかくだからお金も落とさなきゃ失礼とドリンク類も所望する上に匂いにつられ買い食いも、一点だけサービス上注意しなければならぬのは、誤嚥性肺炎などという前にヨーグルト嫌いな点である。おせっかいにもほどがある好物のアイスコ―コーヒーに思い切り生クリームと取り違えあきれられた筆者。
最後にアミュの始まりは高架以前の長いプラットホームから集団就職列車が別れを惜しんだ場をスタートし逆向きに飫肥をめざしたスペースだった。そして今も心の駅であり続く。杖の怪人稲垣政安は杖をスズキに乗り換え店店と顔を合わせる日常。田野医療専門学校の破天荒クラブの面々が脱福祉のイベントをMICCダイヤモンドホールで開催する資金を一軒一軒商店から寄付を集めたエピソードも温故知故。メインは発足時の橘太鼓響座とキムジョン。
たしかにおせっかいにもほどがあるのだが、電動車いす歩者にまつりの中で行き会うとき求められるならば少し姿勢をずり上げてあげるとか、一緒に写メ撮らせてもらうとか、高度なトイレ介助の時はHAROWのが快適なので案内して座したら外で終わったの声を待てば良い。決して介助されるのが恥ずかしいなどと気を回す必要はない。では、野海さん行ってらっしゃーい。
