続サルママ〜郷里へのラブレター
「地域を愛し、ふるさとを愛し、そこで一生懸命生きて行こうとすれば、何かしてみたくなる!それがボランティア」89年に青島で全国ボランティア研究集会が行われる前段に数回九州ブロックが長崎でもたれ、そこで基調講演した小松光一の現代の宮沢賢治的解題。以後、この言葉を反芻しながら暴走した青春期。
と前置きした上で、この頃のわけもんの元気と煩悶をその頃の私的シーンを重ね合わせる。結局「すること」と短く呑みこんで活動は続くがどうも、自他とも積み重ねが無く浮遊感だけではモチベーションと拡散力が足りなかった。しかし、毎年2.11に開催されるミーティングが発散と勉強の場であった。ある程度経験を重ねた上で得た「砂を噛むような」徒労感な症状に劇的に効いた分科会があった。座長は静岡の小野田全宏氏。当時状況を突破したい人集合といったメニューを持たない・ミッションを掴めてない人向けのディスカッションだった。
実行委員レベルではKJ法が活用されていたが、討議が主流で今のようにワークショップ形式での研修はまだ確立されてはなく、助言者・水先案内人と呼称される人の個性が頼りで、勝手に悟らされる覚醒のネットワークの時代を成していた。その分科会で私が腑に落ちて意気揚々と帰郷して取りかかったのが「MEDOL」おせっかいという名の情報誌創刊号であった。とにかく発信しなければ意味が無いとボランティア活動フラストレーション打壊のために私が私の未来の為にマッチの加勢をもらった数ページ。彼は表紙にボランティア観光都市宣言をしてくれた。音楽のページもナミゾウが甲斐聖二論を電気椅子の希有なミュージシャンとライナーノーツしてくれた。松浦哲也氏がボランティア夫婦論を展開し美容室から展開される活き活きした視覚障碍シーンを筆で。わたしは架空デートという実況を平賀錠二を登場させ、実際「ライトスタッフ」でデートさせフォーカスした。
編集後記は写植から仕上げまで頼んだ新城写植の平田寛に任せた。おあえつらえにページの隅に「ボランティア365OG浜砂由美好に捧ぐ」と入れてもらった。
何が、目立ちたがりが活動で生産されるフラストレーションを出版と云う手だてで解消したに過ぎず、次号は無く、広報という手段が業界に定着した訳ではない、今も上質のジャーナリズムは最重要課題となっている。
本題のサルママについてに書かないまま終わるが、何と言っても伝説のサルママの5号が本拠地若草通の外山模型に入荷してなかったから仕方ない。
懇意にしている喫茶店のムー氏がおまけのCDの責任編集ということでブログしている情報とツイッッターでのニュースから想像するに、サブカルチャーが面白いという大発信を郷里の若者が内紛と正しい討議を重ね、おまけに手作業で仕上げた一大事のようだ。サルママに連帯し活字とグラビアとCDで網羅された内容は、私が知事なら経費を一億くらいあげる価値のあるものである。
かって、県立図書館がまだ楠並木にあったころ、ホールではスキャンティー桃沢がサティファクションに身をくねらせていた。そこに敬意を表しにいったものだ。黒テントにも人は群がって小野和道氏は自転車でふるさとを巡っていた。
サブカルチャーの存在感がニシタチのそれとあいまって活況を呈していたミレニアム前。
とにかく隗より始めよ精神で、若者が連帯したようだ。マスコミは誰も知らないと警鐘を鳴らすが、サルママも常識も「我がふるさとへラブレターを書きたくて書きたくて」そんな気持ちの沸騰があるのだ。
つまり、冒頭の小松氏が説いた「何かしたくなる」それがボランティアの根源の愛。
かって、出版というしでかしをして、少しはふるさとへの愛が通じたと自負できている私から、サルママに賛辞を贈りたい。まだ手にしてないが、CDも聴いてないが。
でも、一曲目のキリワイは太鼓判をペタペタ押してあげよう。そして、総てのサルママラバーにも。
なお、写真も撮れてないので、今年最大の事件ニパフ、文化ストリートでの催し、ダルク総出の客席の地べたで並んだパフォーマンスのときカンパ購入した自画像を掲げておこう。彼女は対話という表現をした比人レディ。