田中達昭・NPOネットワークの立役者
県福祉総合センター2階研修室三部屋を開いて、田中尚輝講演会が県社協主催で開催。同時進行でマニュアル本も発刊。県ボランティアセンターが看板を上げ、木下センター所長の采配で第八回全国フェスティバルのプレイベントに総力を上げていた。ミレニアム期に、実質上宮崎県のNPOシーンは胎動を始める。法制度なので国から降りてくるものではあるが、土壌には、市民活動あってのことで、その一躍を担っているボランティアは、一層まちづくり色を帯びてゆく。
さて、立ち見も出た田中尚輝講演では、一点「パラダイムの転換」という初耳が明るく腑に落ちた。イマジンが謳う、政府も無い♩理想は考えうる最良の思想として、環境界から波紋を広げ、沈黙の春と両輪で世界を席捲していた。
同じ田中姓の田中達昭さんが尽力して、協会も遂に法人の仲間入りを果たした。それまでの会員への法人化へも講座を展開し、ネットワークを組織した。土呂久鉱害患者支援の会計畑、銀行員経歴、カトリック教会信者と、どれをとっても、その精神は揺るぎなく奉仕と革新に満ちておられた。
(もしかして、講演者は山岡義典だったかもしれぬという、記憶思い込みの不安が湧いてきたので、補足しておく。)
台湾で育った身体と心は、おおらかで障がいのある仲間への励ましはユーモラスで温かだった。
進取の精神に臆する事なく、会長就任時にNPO化を成し遂げた他、ふれあいの旅を、シーガイアと日南へと足元を掘り下げる場所へといざなった実行委員会にも協働された。結果はどれも光となりミレニアム期を協会丸は怒涛の進撃を果たした。
後任を宮崎大学上條氏に分け渡した後も、段ボールコンポスト普及など個人的な活動に入られ80歳代の静かな生活の中から
常にNPOシーンへの眼差しは届けられていた。
青葉町の御自宅の様子、御伴侶のご逝去、不遜ではあったが協会会費滞納と縁が薄れかけたと感じはじめた矢先であった。
30回ふれあいの旅に乗り合わせるかのように、10月始めに帰天されていた。
これまでの法人化の恩、仲間・弱者への励ましの恩、そしてシルバータウン構想とそれらへの多大なる実行力に感謝して
こころからの祈りを協会事務所よりお礼させて頂きます。ありがとうございました。アーメン
各位の敬称は略させていただきました。