生きがい
事情で同居している長女が「どう生きるかが大事と聴いた」と送り出してくれた。小学校は卒業式で下級生は早じまいらしく洗濯物干しを手伝わせながら八面六臂のヤンママも板に付く。決してからかい気分で子育てをしてはならないとはインディアンの教えであるが、真逆であった私は神妙に娘の言葉を受け取った。妻が言うには「ボランティアばかりして向かい合ってくれない!」が15年前の彼女の言い分だったそうだ。そして今朝は「今もぢゃわ」と釘を刺された。でも呆れた果ても、「お父さんあなたの生きがいなのね」 と付け足す余裕すらみせる。一番大事な時にも他人事ばかりだった私、腹水盆に返らずでもっともっと困らせられた方が罪滅ぼしかもしれない。4人の子育ての内半数ははっきり言葉を返す方で、二人は行動でという陣容となった。見事に遺伝子は両親から伝統を引き継いだようだ。
そんなまなざしに見送られて出勤、通りに出ると、マンション玄関で点訳奉仕ボランティア男性の方の運動中に出会った。立ち話となったが、体調は回復してきたと背筋が伸びておられたが、訳の方は見解の違いで辞めたままと応えられた。間はあったが、辞めた理由を記憶の層から引き出されるには、こう。W杯を訳すにも読者である視覚障がい者へは正確を規すとのことで、wはワールドカップとは翻訳できない約束事に気乗りがしなくなられたらしい。話はそこで終った。点訳活動中の熱の入れようはたいしたものであったので惜しい気もするが、今はリハビリに生きがいを見つけられている。そのことはリスペクトできる。
事務所を開けるとほどなく電話があり、切手整理ボランティアの方が仕事分を引き取りに行く旨。かなり長期にわたりご家庭で規定の幅に鋏入れ整理して、次の分をお持ち帰りして下さる。生きがいとは大袈裟だろうが、単調な生活にリズムを刻む小さな活動と成しておられる。生活に添ってある活動は理想である。時は選挙期間が近付き、オリンピックの前哨のような動きが見られる。選挙こそは生活に添うべきなのに、高揚感に憑かれた叫びを議員団から聴かされる期間である。ひるがえってみればボランティアさんらは、生活に添い熱中したり辞めたりといきいきわくわく感を小さなサイズで活動されている。そこにはきっと私発のマニフェストが生まれている。能力を拡大させ起業化まで到達される諸氏もはじめは小さなボランティアだった。
政治家の卵の皆さんのようにすべてのボランティアさんがコミュニケーション力に秀でているとは言えまいが、生きがいに取り組んだ末に得た意見は光るものが存在するはずである。そんなアイデアを集め整理する議員の姿勢が未来を拓くやもしれぬ。政治家を企業人におきかえれば経済効果もより楽しみ。
われわれの生きがいは小さいが、スポットを当てた時の残影はひときは鮮明に大きく映し出されるだろう。
では、議員並みに広げすぎた口を納め、事業主自ら配達されたブライトハウス弁当ミックスバージョーンを食べて、午後の仕事に備えよう。