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野戸哲哉回顧

2015年4月2日 野戸哲哉回顧 はコメントを受け付けていません

その人の刻印は、末期に至らしめた病の終焉、ホスピタルと葬祭場に不随活動として在る。しかし小さき体躯が駆けた宮崎平野随所には戦いの印が整理され、門を叩く人に答える準備を人生を掛けて済ませておられる。少し読み取り回想してみよう。有力な聴き手であったはずの私にマスターキーを授けられているような気がしてならない。そして、関門の一つが現美郷町であり、村所であることは疑う余地が無い。天国の最上に座す長に、証拠が提出され検察官と国選弁護人の質疑が始まるのを傍聴する私は、固唾を飲んで場面を読み取る。そんな証言を確かに聴いた30年前のレコードに針を落としてみよう。
31回目のふれあいの旅の候補地が決められるプロセスには、オブザーバーから助言が欠かせない。南さんという人柄は重宝されている。このことは補助を受けた事業経験の功罪でもある。それは、自らの意思を貫くことの不可能であった人生体験に由来するが、岩盤を突破してきた集団力からすれば認知せざるを得ぬ。まあ選択肢の提供は何でもありだからと。しかし、言いなりに育つ、おりこうさん、優等生路線はダサいというのが、突破力を得た集団の合意であった。つまり細部に渡りオリジナルでなければならないことへのこだわりこそボランティアたちが持ち込んできた大量創造どこでもドアーであった。オレオレにも似た誘惑を果敢に駆使し障がい者教育に挑んだ汎社会な勢力であった。いつも辛口に実行委員会評をここで繰り広げている訳は、統計的に見てもおりこうさんやおじょうさんおぼっちゃんをワンダーランドに連れ出す魅力に取り憑かれたボランティア憲章なるものがまだ揺るぎない可能性を失っていないからだ。この主張は脚色しすぎでも、ご本人は知恩院信仰に厚い方で、その点でも聖書系ベースの方とのバランスが取れていた。美味しい珈琲とくゆらす煙に目を細める時思考に遊ばれていた。

またまた前説に力を入れてしまったが、その人野戸哲哉は、宮田三男事務局長の補佐役という格好の場を得て、宮崎県内で国民保険を地ならしした仕事を今度は自由な立場で補填していきたいとボランティア協会に飛び込んで来られた。まあ、省庁が通達した制度を下ろす立場のお役人が自らの英知を注ぎこみ正義を果たしたいという美談である。まあ、は余計。まあ、と真のジャーナリストを揶揄して雷を落とされ真剣の重みを測る力をつけてもらった経験から言わせてもらえる。
県域にボランティアコミュニケーションを広げるのは、彼が制度準備を説いて担当地を巡回した経緯をなぞるようで楽しかったのだ。きっかけも愉快。彼が選んだボランティア講座は点字点訳であった。業界が歴史的にも存在する視覚障害者への援助は、既に縦割り、派閥といった政治的要素の上に成り立つ。ボランティアはそこに分け入り自由な風を吹き荒らしたわけである、まあ。しかし、会議としては整然と両派閥が肩を並べる議会機能をこの部屋ではしっかり果たせていた。その舵取りが宮田事務局長であった。そんな鉄火場に浪人として飛び込み一目で中枢にスカウトされた訳である。シニアライフの毎日はここに通うのがわくわくだった。
いつしか、車椅子運び専門の私は野戸さんのお抱え運転手役も増えた訳で、公務員研究を走りながらさせてもらえた。いづみの会に秋波をおくるなどと二股かけている訳にはいかず、野戸さんは男道へと指示を出され、入郷地区へ幾度か足を運んだ。その結果ふれあいの旅上米良泊という回が実現した。二度と出来ない経験を残した訳である。しかも重度の人の参加が多くすわ道行かの様相もあり、おまけに近場ならということでわたぼうしコンサートのユニットまで持ち込んでの一大ページェントが繰り広げられた。第3回初の一泊高千穂、2舎分泊の感動も薄らぐほどであった。唯一無比。今の西米良桃源郷観光ブームを予言したかのようなふれあいの旅であった。それはその回きりの幻でもある。あの谷間に響いたコンサート!気合を入れた原田恒夫さん持ち込みの打ち上げ花火!せめてものおもてなしの柚子湯!寸劇白鳥の湖も!めくるめく幻想!あーとため息が出る。
そして、まちづくりの一過性を経て米良の里は双子キャンプ場、ゆたーと、小川作小屋など後進に隆盛をゆだね、元の過疎の鄙にもどって眠りについている。

野戸哲哉物語の刻印を感じさせて止まない。

野戸哲哉物語の刻印を感じさせて止まない。

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