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末次一郎 回顧

2015年4月8日 末次一郎 回顧 はコメントを受け付けていません

その人の刻印は、末期に至らしめた病の終焉、ホスピタルと葬祭場に不随活動として在る。しかし小さき体躯が駆けたこの世界には戦いの印が整理され、門を叩く人に答える準備を人生を掛けて済ませておられる。少し読み取り回想してみよう。検索すると随所に時節柄復古イデオロギーがらみのコメントの中に国士としての評価があり、我々地方ボランティア界で見せていたカリスマ的励まし手であった以外に、首相へのアドバイザーなど、父親世代の人としては特異な存在であった。直接に会話がなりたったのは戦友をたよってはとの宮崎在住の方の世間話くらいだった。しかし、奈良の播磨靖夫氏と代々木の末次さんが醸し出す覚醒感は当時三十代の我々には愛と自由をめぐる二つのベクトルとしてリスペクトしきりであった。お二人ともベースには大陸進出をめぐる幼小と青年期の記憶が世界に向いて開けてあられたようだ。そして、ことあるごとに九州のこの地に寄せる想いは、特攻の地へのオマージュを佐賀出身者としても感じられていたのと、播磨氏にとってはこの地の持つ原始ホスピタリティーへの気づきだったようだ。
残念ながら末次氏に関するエピソードはもうこれ以上書きようがない。しかし、長崎県開催の先を越してのボランティア研究集会宮崎の成功の奇跡を語り継ぐ時に、大会でのボランティア意識高揚の番外で戦友とのしばしの回顧と希望の宴をプレゼントできたのではとごちる。昭和から平成へと年号が変わるというこれ以上ない節目に準備され、手塚治虫の訃報を運んで来たようなタイミングで青島の会場に参集した800人が新たな意味を持たせた2月11日の恒例開催日に集い知恵を寄せ合った二泊三日。まさに神話と呼べる集会の頂点にまだ壮健な姿を見せておられた。
しかし、27年前は戦後53年であり、戦後9年生まれくらいの狭間の世代がリーダーをつとめたボランティアVS大消費社会の見えない奮戦時代に体系化ビジョンは個人的にも固まらず、平成7年には初頭に阪神淡路大震災を経て、ここをボランティア元年として活動と非営利が特定化されていくのであった。くにづくりに応分の関与を願い続けるちいさなけれど熱い内発性。他人事なれどアイデアは湧きでる自由度の大きな創造性、鍛えようでは新入社員以上に戦力化できる人材の宝庫、真正総力戦には欠かせぬ制度ありなしのボランティア。一応受け皿としてNPO法制化となっていった経緯で、なお原始性のまま何でもアリのタイプ型ボランティアが堅持されている我が協会などなど。
そんな細かなポリシーの団体へも援助の気持ちを惜しみなく注いだ中央組織の長老としてある意味大戦の贖罪的貢献を働いた国士へのオマージュとしてふって湧いた様なミニ寸評を気まぐれに書きとどめた次第。
施設サービスと私的生活のコラボレーションの一隅に事務所を使う、野海編集長には、5月号への投稿が依頼され、先ほどから簡易畳の上でipad作業が次第に熱を帯びてきている。私の方は新ドラマ「まれ」に浮かれながらも、福祉シーンとボランティアがその自由度の針が振り切れるほどのリビドーをまた、まだこの事務所で湧きたたせながら居るのである。
誰が撒いたかは定かでなくとも、強い意志で織られているボランティアDNAと活動するうちに転写したRNA因子の存在を喜びつつ、新たな発芽と生誕の春を感じながら。
みやざき教育支援協議会メスカと野海個人とみつどもえの事務所にて。水曜日の事務所
                              釈迦誕生の日とされる日に

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