語り部回顧
語り部深夜、季節は春の嵐の様相で抜けた天井の下には容赦なく冷気が降りてきて、春蒲団の中で身体は冷えるばかり、馬鹿な男は携帯に夢中で蒲団をすっぽりかぶり止まらぬ鼻水を吸い込みながら一時をまんじりともせずにいた。サーフィンを切り上げておれば良かったものを、未読のメールに手をつけた途端急に胸を締め付けられ・・・。
いっとき、ほうれん荘を会場に語り部教室というのが盛り上がった。講師は歌うボランティア歌姫たちのクイーン日高淳子が宮崎女子短期大学の恩師を連れてきて宮崎わたぼうし会の目玉としてどんこや以前にスタートした。「ストリップも国立劇場で演ずれば芸術だ!君達よトリックスターたれ?」と奈良の地から檄を飛ばしにやって来た、たんぽぽの家のカリスマ播磨靖夫の国内戦略の一つで身体言語障がいをものともせぬ、目立ちたがりの演者たちに昔話等の語りを訓練するというもので、国際戦略同様に宮崎の地でも先駆的な呼応をした。長谷川星児氏ののどかなしゃべりを活かして、西俣実知子さんの表現力を引き出し講師の矢口裕康教授が普段女子学生に課した道場がそのまま飛んできて青葉町の長屋の一角で始まった。私は会員の送迎ができぬ時に車を出したが、当時は青葉陸橋時代で、坂に差しかかる寸前の赤信号でブレーキを踏む荒い運転をしでかし、語り部のおでこをゴツンとフロントにぶち当ててしまったことも。当時はシートベルト着用が?!と言い訳にもならないが語り部はその名の星をピカピカさせたものだった。というような夜間教室そのものが昔話のリズムで毎回続き、しばらくはコンサートの2部で好演を博したものだった。語り部熱も、その後の今度は北九州障がい者ボランティア福祉協会からのふうせんバレー熱へと関心が移り、演者たちの出番は消えてしまった。スポーツの発散への関心が語りの魅力に勝ったのか、舞台そのものへの希求が風前の灯火であるのは福祉の現場でも推進力を持てなかった。
しかし、矢口教室は、知的障がいしゃ部門では仲間の家のオプションとして継続している。昔話のかたりべの役割は今でこそ高評価を受け、図書館の読み聞かせや、高齢者界では、回想法・リハビリとしてのインタビュー聴き書きなど人間の深淵にせまる療法の価値まで範囲は広がってきている。なるほど、寝物語にわざと怖い話をリアルに爺婆から聴く体験は、冒頭のネットサーフィンで身体を冷やす馬鹿に爪の垢を煎じて飲ませる時代的知恵、宝である。昔話の懐の中で聴く残酷な話は、その仮想体験を記憶させ善行悪行の判断の脳系統に正確な倫理的転写をしたのに違いない。話を感情たっぷりにするだけ、聴くだけで成り立つ情緒育成。簡単な事の中に真実は宿るのだ。ニュースは、感情の未発達が原因かもしれぬ事件をそれこそ、興味本位な報道として語るが、自分のこととして語らなければ、いつのまにか感情があっても働きが悪くなっている普通に見える人たちになってはいないか。いざとなって、私は私の感情を語れるのだろうか、ゲームに飽いて聴く姿勢のタイミングに寝物語をすることができるのだろうか。
かって、語り部たちは聴かせる魅力のとりこになって、語り部の訓練を受け、何分割かしたりして、昔話やらを舞台で演じ興じた。壮大な実験だった訳である。10年早められた後期高齢者として老後を迎える現障がい者のうち、語り部経験者たちは文化的に先取りしていたともいえる。
歌うことが好きでうまかった障がい者に甲斐聖二がいる。車椅子のシンガーソングライターは神話的に定着して、目立ちたがり屋の本領は、たけしの医療番組に難手術の被験者として身体をさらすのも良しとした初老の域に達している。今秋、施設生活で第2の故郷である小林市ホールでの凱旋話が舞い込んできたという。二十歳前から描写力を褒められ猫画伯こと斎藤泉との合同二人展は一つの福祉エポックとなった。そんな折に寄贈した百号の絵が補修され某小学校に飾られたことともシンクロして久方ぶりのふるさとのステージが見えてきたと闘病中ながらも声を弾ませていた。そんな彼のMC、歌唱の間の語りが好評であったことは彼もまた語り部の役目を持つ人であることを示す。
誇張していることに気づくか気づかぬかのうちにメッセージは聴き手に届くのである。してよいこととしてはいけないこと。残念ながらネットには、そんな神業じみた力は無いようだ。あるとしたら、悪へのそそのかしは簡単に伝わるようだが。甲斐聖二ショウ舞台で裏方に回るチャンスが幾度かあった私が一番聴いて心したのはこんな彼の語りである。
僕は、未熟児で生まれて、生まれた時に抱き上げた祖母が、こりゃうりんこのごつあるが!と振り返ったこと。つまり、彼が聴かされた昔話は、お前が生まれた時は手のひらに乗るごつちいせかったつよ。まるでうりんこ、うりんぼうのごつかわいらしゅうやったわい。うーんちいさしてかわいかった、かわいかった。とよくばあちゃんが繰り返し話したという。のを私は本人から聴いて妙に理解した、腑に落ちた。今の目立ちたがり屋の誕生時は波乱の幕開けだったのだと。彼はその運命と一生格闘していく身なんだと、だから、普通に付き合えば良いことをその昔話から、おばあちゃんの話は直接聴かなかったが、素直に子どもの聖二が理解できたことと同じようなメカニズムで友達にも伝わったこととして。
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さて、今身近に野海靖治さんが水曜日の事務局にメスカの川崎さんと共々いるが、彼は言語障害を持つ。その分日記として協会誌に行動見聞俄かボランティアとの絡みなどを寄稿してくれる。しかし、彼との対話が実に面白い。これもまた、語り部であろう。一言一句正確に読み込まなければなかなかうんと首を振らない。話の組み立てが起承転結、序破急の論法にのっとっているので、誤字の解釈は許されない。自然と流れはどう失敗したかに行きつくのだが、シチュエーションが曖昧ではオチがつかないのである。彼は犯罪者でも、違反者でもないので難解な発音には危険物は含まれないのである。そこの正解がなかなか読み取れないので、悪い方に誤訳すると上半身を乗り出してち、違うと糺す。いやらしく曲解すればはにかみながらも身体を揺すり馬鹿じゃないのと軽蔑してくる。とにかく語り部は警句、アフォリズムを吐きかけてくる。ポジティブである。今は高齢療養の日々を皆に先んじて送る稲垣政安も語りの構成までは熟成しえなかったが、身体言語で売り歩きを果たした傑物であった。どちらかというと語り部に語られる出演者としての生活があった。東北の昔語りの熊や頓知者の登場人物同様、昭和宮崎の語られ部だった。そのエピソードの数々は、是々非々受け取られようが、宮崎の福祉の定点観測であったことは間違いない。百人の候補者のスキルをしてもおとらぬ行動をおこさせるやさしさ引き出し係であり続ける。
机上では私がこの語り部論を、床の畳の間では野海編集長がふれあい5月号の原稿を書き上げた。冷えて飲みやすくなったコーヒーを電動に乗り移り飲み干す。来週火曜日は彼が委員長のふれあいの旅実行委員会がスタートする。
昼食介助のヘルパーを試験的に登用してもらっていたが、制度的に居宅介護制度を外出先までに延ばすことはまだ無理があって辞めざるを得ないと嘆く。したがって昼食後の出勤に今後はなるという。介護保険制度の下、あらゆる普通のご老人も自由を狭められながら、老いと追っかけっこの日々だ。今様昔話には頓智を効かせたポジティブな語り部に生き抜くすべを語らせたい。
来週の理事会開催の知らせに各地各界の理事から返事FAXが届き始めた。役員改選期(任期2年)である。すでにメスカみやざき教育支援協議会との事務所シェアがスタートしている事務局体制から理事会へ情報をボトムアップし、5月総会で会長が今後2017年春までの展望を語り合意形成し新たな船出となる。事務所は確保でき流浪のボランティア団とはならずに奇跡的に継続している前向きさの意味を遠い先の子孫に伝えよう。ニーズが宝に見えてしょうがない懲りない面々ののんびりした日々を社会的問題解決弱者協力絵巻編として。
特報:シアターフェスティバル2015
尚、野海さんが昨年一年かけて創作した脚本がショートプログラムとして今週末の都城ウェルネス交流プラザで上演され、本人も出演する.
シアターフェスティバル「ipadよりすごいもの」と題された劇。14時から旧大丸デパート裏のホールの茶霧茶霧ギャラリーにて
正確には、「君は歌うことができる」が成果だったが、その器量を永山こふく劇場監督に認められてのまあるい劇場座付き作者としてのデビュウのようだ。トイレ介助の際に漏れ聞いたので間違いない。決して誤報ではない!私は観劇に行くしかない。ランチはMJのなのはな食堂だもんね。