真早流直義回顧
ひこばえ村は、旧高岡町の飯田、本庄国富の嵐田への峠の登坂口の信号機から降りたところにある。あった。
今も寮として使用されていた2階屋は残っていて、ちょうど新富町のランドマークだった比江島産業ビルが、今も車椅子トイレマークを掲げたまま残されているのと同じような状況。かっての賑わいを偲ぼう。
『鴨は見ていた』は、少年マサルが飛び込んだ清流に桃源郷を想い、行きかがり上できてしまったひこばえ村の成り立ちの記録の出版物である。その続編には隆盛期の村の景色が描かれている。さて、どんなひとだったのであろうか。画業と陶芸の才を資本に石井十次のような展開をされた方と言おうか。また、私たちと共にボランティア界で活動された同志であるとも言いたい。その頃村に出入りする善男善女に混じり季節の宴に誘われて久津良郷の美味美酒を味わい、手土産も何やらお宝を持って清々しい気持ちで10号線を行き来したものだ。美術教職の延長線上に就労と共生の為の新しいきコミューンを実家に創生させたのだった。同郷ということもあり、厚かましく対等に出入りを始めたが、きっかけは友人のわたぼうし仲間の財部豊隆&どんこや創立主要メンバー大西章弘が一時参加していたことが入り口であった。二人のひこばえ記は鴨は見ていたに詳しい。当時の開村したてのひこばえ村は駆け込み寺の様相であった。何しろ、昭和が末期に至る頃というのは、本庄を更に西都に越えようと六ツ野原台地の入り口三名にエデンの園を訪ねるチャンスに、開祖者宮本ファミリー夫人が当時の障がい者処遇環境をリサーチするに座敷牢的現状を余儀なくされていたとの言質を聴いたことが忘れなれない。その閉塞状況からの解放であったのだ当時の福祉は。コロニー構想で出現したのが向陽の里、自前の重度施設エデンの園からは障がい者界のビートルズと言えるグレープフルーツが飛び出して全国に解放のメロディを鳴り響かせた。
針路を飯田に戻そう。そんな公的にも私家的にも福祉文化が躍進を始めた頃の徒花がひこばえ村。ほどなくその役目を突破してヤマギシズムの方角へと飛んで行ったのだから。粗筋としては、その頃支援者に囲まれ画業、陶芸の道こそといわゆるアートの世界へ先陣を切った真早流直義だった。ハンディはアートの中にとは、記録作家川原一之の命名で日の目を見るが。天の才がアートに開く作家育成こそが福祉が社会に寄与できるとの発想の実践場ひこばえ村。同時進行の音楽に秀でた者達グレープフルーツや私的にコロニーをとのみづよ高原などとニュースに取り上げられ、社会のセーフティネットの構築に賛同は大きなものがあった。一番成果が見られる部門が陶芸ということで、その頃のフリーマーケットにはエデンの器が並んだり、ひこばえからは村長カラーの一品が展示会を開くほどの盛況をみせ順風を受けていたのだが、針路は思わぬ三重県の共同体へと大きく舵を切った。
私は会長と呼ばれる名誉職の立場でも、真剣に仕事を探ったので、いわば、出入りのフリーパスをもらったつもりで直感的に行動に出た。出たとこ勝負であったが見聞は広まりひこばえ村にも村民と親しげに交遊させてもらった。研修会で助言を彼にいただいた。それは、学生ボランティアの相談への否定的とも取れる言葉であった。「そんな気持ちを持つものではないのでは!」とぼそりとつぶやかれるような受け答えであったが、箴言である。その鹿児島で学生ボランティアを充実して活動している彼は、しょうがいしゃ施設に通う内に、どうやら施設の女の子から行為を抱かれているらしき事を、「好きになられたら困るんですが・・。」とのろけぎみに言うた。それを、人を好きになることを、君は何か勘違いしているのではないか、男女間の感情だけが愛というもんではなく、すきになられたり、すきになったりすることを困るなどということがおかしいはずだ。と恋や愛にまだ発展途上の学生をやさしく、しかし、愛の深さをも含めた回答をするりと出して下さった。そんな愛というものの側面を格闘に等しい生と性の場に生ずる大切なものとして考え体験してこられた師でもあられたようだ。
そのころ村では村長の再婚につれ幼い子供も次々にという状況だった。子育て環境の場として共同で育児や生活をというコミューンへの参加となっことは事実である。30代の私にも次々と子供が生まれ、長老の風貌の村長にも次々と生まれた。思い出のエピソードはラジオ番組収録である。当時宮崎放送で地元の知名人のリレー枠があり、お鉢が回って来た。いろんな宴会へ飛び込んでふれあいに旅への寄付を求めていた姿が共感を呼び、当時保険のサンコーをはじめた先輩知人の紹介で蛯原一成の回のゲストにスタジオ収録のマイク前に座した。その時にはバトンを渡す人を決めておかねばならない。逡巡することなく真早流を選び収録日には小一時間インタビューする側になった。覚えているのは、かねてから疑問、当時ボランティアの研修に全国へ出ると「宮沢賢治モデル」が頻繁に出てくるのだが「一体何で?、そんな人宮崎にいるの?、先生教えて?!」というものだった。今でこそエコロジカルで農と芸術を深め地域に根ざす活動家としての賢治像はなるほどボランタリー的評価に値する、いやスーパーマン的であることは識るが、当時は自分の立ち位置さえおぼつかずお節介だがまあ許してもらえる程度の私には究極に問いがあったのだった。
真早流は髭をなでながら、ええ、いますよ、都城のなのはな村にと暗示のように教えてくれて、回が終わり、次週には未知の藤崎芳洋氏が呼ばれ、その後とんでもない人脈へとあみだくじはそれたかどうだか、今はサンデーラジオ大学に引き継がれ長寿番組として評価は揺るぎない。
子育てには相当力が入るものだが、同時進行で二度目の子育てに奮戦した村長は、ヤマギシズムに迎えられた。私はまつぼっくり保育園では運動会で仮装行列の人形姫に扮して生涯最期の女装パフォーマンスを打ち上げることになったり、運営の楽しみは似たことであり、余暇ボランティアの延長上に子供の遊び場創出も手応えを感じながらであったが、聖者の風貌の真早流はそのまま聖地の人として自己改革という試練の場へも参画される道だった。移住後は盛んに物産ともども故郷回帰の機会はあったが、本県での広がりには及ばなかった。
坂本正直の長命の画業が戦地の馬であった静謐さであったに比べ、年下であるにも関わらず真早流の噴火噴流のカンバス、陶芸はエネルギーの噴出が溢れ、許容量も大きかった。戦地体験者と比べてどこでどうバネになるトラウマと感動を得たかは知れないが、ひこばえ村作業所では確かに人間のエネルギー力が噴火していた。それを鴨は見ていた。そう自身で述懐しながら、村は閉じられた。
いつか、ドキュメンタリーを創る機会がスタートすれば、あそこから始めれば良いのだ。そう信じてやまない。