六月
六月
茨木 のり子
どこかに美しい村はないか
一日の仕事の終わりには一杯の黒ビール
鍬を立てかけ 籠をおき
男も女も大きなジョッキをかたむける
どこかに美しい街はないか
食べられる実をつけた街路樹が
どこまでも続き すみれいろした夕暮れは
若者のやさしいさざめきで満ち満ちる
どこかに美しい人と人の力はないか
同じ時代をともに生きる
したしさとおかしさとそうして怒りが
鋭い力となって たちあらわれる
ボランティア活動が動き出した頃、宣伝役として講演や地域発の情報発信の開拓者だった埼玉県の杉浦光子さん。
文庫活動というジャンル、今ではサロン活動がいわゆる自宅を開放するスタイルで継承されていると言って良いが、
女性の生き方をボランティアの裾野で花開かせた姐御といった風格の婦人であった。
その光子さんは、いつでも声を掛けてをキャッチフレーズに、自前のコーディネーターとして福祉の在り方に寄与された。ご主人のお仕事が社協マンということで、地域での生活にボランティアの発見の種を豊かにまかれ、賛同者や応援者がその考えに常に影響をもらっていた。その発信の形が、「六月」という名前の自分発の情報誌であった。パート内職で添削をこなされる程の文章力は、詩と挿絵が一杯に詰まった定期便として私家版ながら同時進行している各地のボランティアたちに届けられた。その「六月」の意味が、茨木のり子さんの詩に象徴されていることで、名前が付いていた。ユートピアを想像する生活の希望は、日本の成長期に我慢や統制が覆っていた光ある生き方を懸命に主張していた。
宮崎でも、日向市の研修に講師として来ていただいた。せっかくのチャンスということで、医療ライターとしての仕事の取材のお手伝いで精神医療で全国に往診することで貴重な存在の水野昭夫ドクターと引き合わせることもできた。
ヤッドの昌彦さんがフランス研修に選ばれた時には、ご主人と一緒だったという縁もあった。
後進の我々からすると団塊の世代の急先鋒みたいな頼り甲斐のある存在の群れも、高齢者として実生活に向かい合っておられるだろう。まだまだ学び合うことを続けたい。「六月」と中島みゆきを教えてくれた世代から。