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星塚敬愛園再訪

2016年5月18日 星塚敬愛園再訪 はコメントを受け付けていません

 社会福祉法人まほろば福祉会の沿革は、四半世紀を迎え祝賀の席に連なる。BE FREEと呼称する関連施設は難病患者ご夫婦、山中道夫氏のエピソードをNo.1の出来事として在る。同じ宮崎駅裏の古家を分割して作業所を始めた森冨貴子さんが懐かしそうに山中さんに寄り添う姿が微笑ましい。式典では後継者の筆頭現翼施設長の功労者代表謝辞にスタート時のメンバーに他にも川崎重明、平田寛両氏の名前が挙がった。5月14日土曜の白昼の野外祝宴は跡江の川風に吹かれ気分も上々。一応来賓リボンをつけ交わったが、少し早く着いた分BE FREEの玄関先でおしゃべりが出来た。立ち話の相手梯さんは最新の入園という。ランニングホームランを打った話も出て、車椅子ライダーだが安全のためだそうだ。どこでもだが、入り口は簡易喫煙所になっていて、正装した若松健一氏もやおら加わり、梯さんが向陽の里や野菊の里を経て今の今があることに話はさかのぼり、更に都城の有隣園にまで小学生の頃は居たという福祉界を歩み続けた梯さんとの短い対話はこの祝賀日の大きな予兆なのであった。
 結局、会食の席の隣席が地域から評議員をかって出ている坂本さんだったことが引き金となりその日のうちの鹿屋行きの動機付け、星塚敬愛園の風見治さん訪問となった。火山地帯というハンセン氏病棟からの文学発信に跡江出身の画家坂本正直翁との絆を辿る展覧会のことは聴いていたが会期が数日ということで矢も盾もたまらず去年のふれあいの旅のコースを単独行となった。午後開催予定の癒しの里総会とダブル出席なので早退際に森さんに声を掛け、ピンクのソフトクリーム移動販売車のいつか会の武田さんから受け取ったアイスを舐めて会場を後にした時点では気持ちは定まってはいなかったのだが。この跡江から鹿屋へのコースこそ、唯一の稀有な経験星塚敬愛園訪問の道程であるから記憶の小旅行を遂に意味付けする旅となった。旅とは記憶の意味付けに他ならない。<星塚敬愛園再訪>

 部屋の時計は夕方の7時を過ぎた。先客が去った後上がり込む頃は相撲をやっていたので一時間余の滞在だった。塩田幸代さん、川原一之さんの名前が互いの記憶のおさらいで出て、壁びっしりの見事な本棚に向かい風見治さんの境遇を映し出すスクリーンを介したような小話の連続は、眼前の老ハンセン氏病の作家画家の愛犬とのたわむれに乗じて押し掛け居座りの様だが、私のいつもの体験パターンそのもの。多彩な車椅子ライダー甲斐聖二氏のアパートかっての紅葉荘2号室での振る舞い、現浅草雷門7階訪問とシチュエーションは同じような様で居心地に違和感は無かった。この馴れ馴れしさ全開で、本棚に見つける作者名を挙げ、話は出会いの場なのはな村、ひこばえ村をくるくるめぐり、ぶしつけな出身地長崎のことへとコップの焼酎晩酌に口をつけさせる間も無く押し切ってしまった。
 ルポにしてはインスタントに過ぎるが申の凧(ハタ)がひときわ目について、しっかりと故郷がバックグラウンドに在り、デッサンなかばの愛犬画を郷里向けに作成中とすぐ側に置かれて大切な仕事を抱いておられる様子から、こころの遍歴の終焉期は強く長崎と結ばれていることを感じた。本人も前の様には動けず、宮崎を介して盛んだった社会進出が懐かしいことには違いない。ただ八重岳宿舎には他に灯りは無いようで、ほぼ過疎化した敬愛園全体もらい予防法の歴史がさらに検証されないまま終焉を迎えようとしている皐月の雨の靄の中だった。「繫ぎ」好奇心と勇気を「紡ぐ」ことこそわれら宮崎ひなた人たちの役目なのだとボランティア衝動~旅の意義を振り返り思う。
 インドに於けるマザーテレサもアフガニスタンペシャワール中村哲さんも動かざるを得無かった人間とらいの歴史、近代ではHIVと加藤哲夫氏のことなど人がテーマと向き合うことで生き切ること。その意義にわずかに触れた。こころの中ではどんこや黎明期に友井絹子、大西章弘ラインでまほろば借用バスでツアーしたときの衝動がいまだわたしたちのメロディとして響き続けていることを確認する。在デンマークのいつみラムーセンとの出会いもここであったが、あのころの光は鹿屋にも、また宮崎の地にも失せはじめて久しい。とはいえ、あたらしい光の萌芽だけを信じ生き切るわたしたちでありたい。
掲示板のこのポスターには驚きを禁じ得なかった。

まさか、戦後の時期になお!

まさか、戦後の時期になお!

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