隣県熊本肥後
一昨年来、差別解消法の講演で来県された講師は熊本の方。この日曜日に難病のある人の就業についての講演者も熊本の老人施設施設長を務められる難病のある方。あのあまりにもリアルな2度の地震被災という体験に果敢に対応して来られ一層説得力のあるビジョンが宮崎にももたらされた。聴講した奥さんからのまた聞きではあるが、朝日新聞記事と併せると「自己開示」せねば道は拓かないという。県福祉総合センターの夜の部で連日開催されているアディクショングループのミーティングしかり、マスコミでもカミングアウトは真剣味をもって波及されている。
ボランティアですと発するのも自己開示。実は、・・・と一歩踏み込んだ話題を提供するのも閉塞感、もたれ、を気分転換し論点をさわやかにする。
熊本の話題に戻すと、3年前の栃木県小山市で開催されたコーディネーター研修に県費で参加させていただいた際、連れ立った女性アドバイザーの出身県を説明してくれた比喩は「議論好き」な県民性だった。我がひなた県民には苦手な分野かなあ。何故だろう。
いろんな仮説があるだろうが、ボランティア全盛期には、都会に出て堂々と「宮崎です!」という、言える姿の若き日向カボチャに芋がら木刀は少なからず好印象を振りまいていた。単純に愛し、愛され、郷土愛の名のもとにボランティア開示もできていた。
ただただ、やってみたいことの一つにボランティアがあって、やってる人の姿をまねている内に、自分なりの成果も得た。しかし、身体はのびやかに動くが、思考を広げたり、隣県のように議論好きが功を奏したような展開には至らず仕舞いだったのか。薩摩のせいにするのは狡猾だが、県西は封建色が強く戦場と化した全平野部、古来から歴史色の濃い入郷地方と元から自己開示された地域性で個性乱立なのか。まあ自然まかせで何とかなってきたと楽観的、ゆるぎなき過信のまま、時を得れば努めずに頭角を現わせてきたんだったのか。嫌が言えない人の好さには納得がいく。しかし、平等に、グローバルに人的環境的災禍は順々に押し寄せる。
そんな時こそ、ボランティアです!宮崎人ですっ!の自己開示を。議論好きの隣県から学ぶ自己開示である。なお、講演での自己開示とは、職場において意思疎通する上で、難病ケースへの理解を求め協力し合い社業発展へ向かうというWINWINなビジョンである。