歴史は西橘通りナイトで作られる
今夏、2回車椅子のシンガーソングライター甲斐聖二氏より無駄話の電話があった。老犬たちとの浅草雷門7階での生活も永い。池さんというボランティア活動家の名が黎明期のみやざき若者福祉シーンでは回顧されるが、元祖・宮崎大学学園生活のメッカ神宮西町に施設/整肢学園〜野菊の里からアパート紅葉荘の一室に舞い降りたのも彼らの尽力ありと聞く。80年代初頭である。同時期評価を受け始めた在宅の猫画家斉藤泉氏との相乗効果で彼の方は写実力を売り物にした二人展の勢いもあり、まだ新進画家の呼び声を受けた若干二十歳前後の脱施設生活の始まりだった。
口先にくわえ歯で固定し脳の指示のまま、あるいは頭と首の微妙な振動をカンバスにぶつけた点描を駆使し、質感までも正確ななぞりは若者の奔放さも明るく表現した。しかし、音楽の虜に若さは傾き、一気に全生活を自身の音楽活動と気晴らしに傾注する自家製自立生活に飛び込み、未だ泳ぎつづけている。
概要は以上のようだが、初回のNHK宮崎放送局の番組化以来、特にUMKテレビ宮崎、上阪後のTV朝日の番組、レポートなど話題に上る存在感の方が、秘めた(公言しすぎ)紅白出演のタレント性は諦め気味だが、先進医療の施術体験として果敢に手術台に乗る医療番組へも顔を出す事で、障がい者自身の発信は続けてくれている。
長い前置きになったが、自立支援法以前、おもに夜の西橘の行きつけのスナックのリラックスでデラックスな福祉放談が当事者主導でどこそこで行われた。元気すぎた者たちが自分で縁を築き、掛かり付けスナックを開拓し、友人を繋ぎ、客を確保する事でホステスらに貢献しながら経済にも参画した時代だった。財源が年金と細々と働き得た賃金を合わせた、(甲斐氏の場合、勘が良く銀鉄球技の報償加算も一時はあったかも)お宝であればなおさら、彼らはボランティアを引き連れ痛快に呑み謳い夢の中に居続けられた。
中置きも程々にして、甲斐氏の電話は、再び手術を東京女子医大で今月中に受ける予定と、手術日が早まったことだった。インターネットで知る旧友たちの様子で消化不良の分を、電話してくるところは術前の心細い心境なのだろう。うまく聴いてあげられなかったかもしれないが、無事と成功を祈ると応えて切り上げた。
写真は、甲斐氏ならずも行きつけの数件の広い時の花紋。松浦哲也さんや東治夫さんとの縁が始まり。当時現役の仲間の家一年間ボランティアや、稲垣政安氏、中村幸広氏などと。背筋が伸びたのが甲斐氏。