猫の殺処分数減少を県との協働事業で目指してみよう、共に
宮崎県NPOポータルサイトをご参照(という鶴島・県NPO活動支援センターからのおすすめより)すると愛猫家には他人事ではない内容。
かって、「死体運び屋」と朝日新聞地域版日曜コラムに記録作家川原一之氏が紹介記事を書いてくれた私は今や古家で11匹のネコに囲まれ、隣接地区には迷惑をかけている。社会全体を俯瞰する行政としても無軌道に繁殖し、特に衛生面上問題解決を迫られる動物愛護事業に地域と手をとりたいという主旨がわかりやすく示されている。協働が目指すウィンウィンでかつスマートなハンドメイドな地域づくりに手を上げよう!と賛意を送る。
もう少し、作家の昔話に戻る。その頃送迎ボランティアだった私は、車椅子をたたみ、お姫様だっこや王子様支えで自家用車から昇降したナイスな友達を目的地へと走り降ろしまわった。そんな活動、実は降ろしてからヤンヤとイベントにも混ざるという目的があったから無償でできた訳で、人を掘り下げる作家には私の本質を言い当てる能力があるので、普段は新聞販売の仕事で走る途中、深夜に轢死した猫を埋葬している噂をスクープしたのだった。彼自身も土呂久鉱害訴訟で住友本社前で座り込む闘士だったので義を見てせざるは勇なきなりであって、生きてる仲間はもちろん死んだ猫さえ大事にする変わったわけもんとして描いてくれた。モータリーゼーションの功罪で撥ねたりぶつけたり、怪我を負わせたりの人間模様の中で、実は隠すことのほうが多いのだが賞賛はありがたく受け贖罪も忘れないようにしてきている。いのちそのものに視点を向けるそのうちに、事柄はたいせつに丁寧に扱うか、気持ちだけ寄せて余計な事には手出ししないという心鏡も曇らせないように気をつけるように道は続いてきた。一匹の死体にそうも立ち止まってはいられないので、その場の最良の選択で済ませるが、死体運び屋当時は、わざわざショベル持参で杉林へ埋める行為に奇異さを感じない程、思考が狭かった。多分カルトに走る若者にも似たこころばえだったかも。心理的抑圧との葛藤があったのだろう。狭い正当性で重い蓋を上から載せておくと充満したエネルギーは逃げ場を失い爆発する。そんな大迷惑を繰り返しながら徐々に人間性を会得しつつあった頃を忘れはしない。
そんなタイミングでボランティア協会の事業中心に行動していった。嫁さんはボランティア365のOG。それまでとの異分野な活動は新鮮で、蓄えてきたエネルギーは存分に無償の世界に放出でき応分の貢献の手応えも決して小さくはなかった。社会が舵を切り替えたので、そのままNPOの世界にも移れた訳で、スタッフライターとして協会の今日を記録している。こうやって。
話を本題に戻すと行政は段取りをつける!のが仕事で、地域の人を立ち上がらせるため協働を仕掛け、その仕組みをNPOが考え、まだ機運が盛り上がらないので少数者が取り掛かって波及効果までは及ばないのが現状。教育分野が得意とする手法に頼らず、できそうな事に手をつけ始める簡単性から動き出すヒント=いのち。いのちとは、「いのちそのものに視点を向けるそのうちに、事柄はたいせつに丁寧に扱うか、気持ちだけ寄せて余計な事には手出ししないという心鏡」のプロセス指向でいたほうがわかりやすいと今日の私は結論づける。
動物愛護事業が、核心の人間同士の愛を深める哲学を含むことを願って、本日の作文は終わり。カムサハムニダ。
写真は、協会の湯呑じゃわんに書かれた「日本青年奉仕協会のプログラム一年間ボランティア参加者が陶芸で試作した寄贈品。通称さんろくご、は全国各地に青年協力隊や、森づくり若者事業、同様フルタイムボランティア制度を利用して活動家の卵として育った人々への」オマージュ。